チバラギの「荒地」から(遺稿)

ジイジとは正治氏、孫のDEAN君に話しかけるように書かれています。

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坂本正治氏を偲ぶ
可哀想なDavidの話
事故
Adobe社「INDESIGN」
片翼撃たれたトンビの死
九十九里浜のテトラポット
〈ヨウカイチバ〉へようこそ!
風間農園のカボチャ爆弾
チバラギの「荒地」から
顔のない仏像と日本のマスメデイア

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ジイジは1938年生まれだから、満十二才つまり小学校を卒業して中学に進んだのは1950年代のはじめの年だった。 「大東亜戦争」と、大きな活字で新聞に印刷されていた日本はアメリカ軍に占領されダグラス・マッカーサーという極東軍司令官が、そのまま日本列島の統治権力を掌握した。 その時代のニホンのことを「戦後派焼け跡世代」と呼んだり、マッカーサー総司令部が統治していたニホンをOCCUPIED JAPANとよんだりしているが、じいじは焼け跡戦後派世代じゃあないよ。どういう世代かっていうとダグラス・マッカーサーのニホン、占領軍司令官だった時代にオトナになった世代だ。占領された国の民衆からえらい人気で支持されていたアメリカ軍司令官がいたOCCUPIED JAPAN 世代なんだ。 ダグラス・マッカーサーはその後、朝鮮戦争で水爆を使うことを提案して、ヒトラーと張合ったルーズベルト大統領の跡継ぎで、あんまり偉そうに見えなかった文民大統領トルーマンに馘首された。引退したけど、在職中は大変な人気だったのに議会の退任演説で「日本人の精神年齢は12歳」とつい本音を喋って、日本での人気は激落した。 でもOCCUPIED JAPANのテイーンエイジャーだったじいじは、当時も今も日本人はダグラス・マッカーサーの言ったとおりの子供、小学生だと思う。何故ってじいじはその時代文字通り12歳だったから、12歳のニホンジンが自信を持ってそう言うことに間違いあるはずないじゃないか。 1950年代という時代は、じいじにとってとても懐かしい時代でもあるし、多くのひとにとってもそうであろうと、何度かクラスマガジンの企画として「フィフテイーズ」をテーマにしたページ企画を出したんだけれど、そのたびはねられたり、60Sの企画にすり替えられてしまうんだ。じいじの年齢で雑誌の仕事をしているヒトは少なかったし、大抵のスタッフは60年代にTeensだっただろうから、ひとりでにそうなってしまうんだね。 無理からぬことでもあるけれど50年代と60年代はまったく違うんだ。それはもう40年代と50年代だって同じことだよ。 東京が焼け跡だった時代というのは1940年代後半、盟邦ドイツが降伏してからもなおしぶとく、というより現実を直視して敗戦を認めることが当時の戦争指導者たちにとってはなかなか出来難いことだったから、アメリカ軍はしつこく大空襲を繰り返した。 死ななくても良かったひとがだいぶそのために死んだし、坂本の家が銀座松坂屋の筋裏に構えていた薬局も5月24日最後の空襲で灰になった。 DEANくんは空襲って受けたことないだろ? 半世紀昔の空襲は今の巡航ミサイルやラジコン爆撃機を使った戦争よりだいぶのんびりしたものだったかもしれないけれど、まだこどもだったジイジにはとても恐ろしかった。 今のアメリカ空軍は250kg爆弾なんていう小さな爆弾はもう使っていないだろうと思う。飛行機の搭載能力も上がっているし、クラスター爆弾とか、恐ろしく高価な兵器だが巡航ミサイルなんかも常時装備されているからね。でもこの250キロ爆弾でさえものすごい地響きを引き起こす爆弾で恐ろしかった。そのころ各家庭で作っていた防空壕なんてまったく役に立たないんだ。アメリカ軍は日本の下町の家並みがほとんど木造家屋で燃えやすいってことを知っていたから爆弾と同時に焼夷弾という地面に激突するとあっという間に炎が燃え広がる兵器を使った。 下町ではこの焼夷弾の炎にまかれてずいぶん多くのヒトが死んだ。だから戦争はいやだ。いけないことだ。日本は再軍備しないで平和な国家に生まれ変わるんだ、という意見は、その後たびたび活字雑誌の上でも、ラジオ・テレビのスタジオからも放送されたけれど、実際はどうなのかねえ。 DEANくんは駅の地下道なんかで折り紙の鶴をならべて座っている女の子なんか見かけたことがあるかい? そういうのはニホンじゃあかなりポピュラーな習慣で、折り紙で折ったたくさんの鶴を「千羽鶴」というんだけど千羽鶴を折ってそれにお願いすると、死者が慰められる、とか、世の中が平和になると期待して、幼稚園でも小学校でも町のお祭りのときでも、それから原爆ドームでもそういう鶴の折り紙を大切にしている。 でもね、DEANくん折り紙の鶴にも、ほんものの野生の鶴にもそんな魔力はない、とじいじは思う。 じいじの両親は銀座の店で最初暮らしていたようだけれど昭和4年の分譲地として売り出された麻布の電車通りに面した100坪ほどの土地を買ってじいじはそこで生まれて育った。だからジイジの知っている焼け野原になった東京は、その麻布台地の上から見たトーキョーなんだ。 麻布の家の電車どおりをはさんだ向かい側は、当時まだ大日本帝国とは戦争状態ではなかったソビエト社会主義共和国連邦の大使館でうちの前にはいつも大使館へのヒトの出入りを見張っている刑事が何人かいた。麻布の家を建てた四代目坂本源蔵(信太郎)さんは、戦争が激しくなった頃、警察から大使館監視のため二階を貸してほしいといわれたけれど断っていた。まだ子供のじいじは警察のヒトとおじいちゃんのやりとりをそばできいていたけれど嬉しかった。なぜって警察が貸してくれって言って来た部屋はじいじの勉強部屋だったんだからね。 両親はアメリカ軍の爆撃は正確だからロシア大使館のそばなら爆弾は落ちてこないだろうとたかをくくっていたようだけれど、最後の空襲では家のそばまで焼夷弾の火がまわって来た。 ジイジの育った麻布台地は戦争が始まる以前はとてもいい住宅地だった。 でも戦争後の麻布台地は、そう言えないね。 「東京アンダーグラウンド」って言う本が***年出版されて、いま鎌倉に住んでいるアメリカ人が調べて書いた本だけど、じいじはこの本を読んでほんとにびっくりした。 ジイジが通っていた小学校のそばにある「ニコラス」というピザハウスが、そりゃどうにもあやしげな雰囲気の店だぐらいには思っていたけれど、それが占領軍といっしよにやってきたマフィアの店で、そのオーナーは二度、三度離婚を繰り返して一時は20億ドルから溜め込んだ資産をすべて別れた女房に持ってゆかれ最後は函館の老人ホームで死んだという。 その事実だけではなくて、TeensのJapaneseが知らないフィフティーズジャパンの内幕を、よくここまで調べたものだと感心する精度としつこさで書きまくっている。どうもJapaneseには、ものごとをありのまま正確に認識しようとする努力に欠けていると考えないわけには行かない。 じいじがいまいる八日市場の畑や水田を気に入っているのは、ここが昔からある日本の農村の風景そのままではなくてジイジの遊んでいた50年代の東京の原っぱにとてもよく似ている荒地だからだ。道路はでこぼこの砂利道だしひとがあんまりいない、50年代の東京ってあんまり人口は多くなかったと思うよ。芋を洗うような、とよく言われる東京都のいまの混雑振りからは想像もできないことだろうけれど。 50年代の東京麻布台地では、アメリカ兵がハニー・カーと呼んでいた#肥#こえ#たご車(※こえおけ車)が牛に引かれて電車道を歩いていた。 麻布には名探偵明智小五郎シリーズや海野十三先生の「怪塔王」や「地球盗難」に出てくるような洋館が多かったけれど、それでも水洗便所は、ほとんど無かった。ニホンジンは下水道を作らずいきなり糞壺と家を建てていたんだ。 じいじが文字を読むことが早くて、小学生のころから割合難しい本をたくさん読んでいたことは前にも話したと思うけれど、その火種は、北海道から中卒で上京、働き振りが四代目源蔵さんに認められて一人娘のカメリア婆の入り婿となった五代目源蔵さんが本好きで、たぶん進学したかったけれど家が貧しくてあきらめたんで、余計六代目になるはずのじいじに本や雑誌を沢山買ってくれたことにあると思う。 読書欲って一度火がつくととまらなくなるものだ。 「幼年クラブ」「少年倶楽部」「少年」「冒険活劇文庫」「少年画報」「譚海」など当時は新しい雑誌が次々創刊されていて、それを片端から読んだ。そればかりではなくて父親がジブンで読むために買ってきたマーク・ゲイン「ニッポン日記」香山滋「ソロモンの桃」W・チャーチル「第二次大戦回顧録」「リーダース・ダイジェスト」などなど片端から読んだよ。香山滋「海鰻荘奇談」に手を伸ばしたときにはさすがにお前にはまだ早いと、取り上げられてしまったが、何、「ソロモンの桃」だって相当早すぎたと思うよ。ラケル・アンチオーぺという妙な名前のユダヤ人爺さんが鞭を振るって狼に引かせた犬橇を走らせるシーンや、砂漠の大地が割れて大鋼管鉄道が現れ、そこからインドライオンを駆る謎の軍隊が現れるシーンなど、今でも印象に残っている。この「ソロモンの桃」五代目坂本源蔵さんは喜んでいたよ。おもしろい、おもしろいってね。それでいて「面白倶楽部」とか講談系の大衆小説雑誌は読まないひとだった。アレクサンドル・デユマの「モンテクリスト伯」とかコナン・ドイルの「緋色の研究」「四人の署名」「バスカーヴィル家の犬」(これは今も有名なシャーロック・ホームズが登場するシリーズ)だけど、ワトソン先生がシャーロック・ホームズに出会う最初から読んでる人は当時そんなに多くなかっただろうと思う。 香山滋先生は、もと文部省のお役人で、やめて小説家になった人だけれど時代が早すぎたのか、富野由悠季のようにリッチマンにはなれなかったらしい。 パンピーメディア評論家にとって香山滋先生の名前は放送ドラマ「ゴジラ」の原作者ということに尽きるらしいけれど、手塚治虫作品と同じく初期の短編長編のほうが面白いと感じるのは、じいじのような旧世代老人だけだろうか。 戦後の焼跡と一言では片付けられない読書環境の中で日本の文芸評論家や文学青年たちに、ぴったり身体に合ったミリタリールックで歩き回る米兵以上に強力なショックを与えたのは、アメリカ生まれで英国に帰化したT・Sエリオットの長編詩「THE WASTELAND」だった。 DEANくんはスピルバーグやジョージルーカスFilmで巨大な宇宙船がワイオミング州の環状削剥台地の上や、ワシントン、ニューヨークのような大都会の上空に現れるシーンを映画館でみたことはないかね? 50年代、まだローティーンだったじいじにとってアメリカ軍というのは、そういう宇宙人や宇宙船の集団みたいなものだった。 1950年代以前の日本には黒い公用車やタクシー、ハイヤーはあったけれど毎年モデルチエンジするエナメルカラーの色鮮やかな自動車など存在しなかった。四つ角に立ってかっこよく交通整理するMPもいなかった。 その先駆けが富士山を目標にして(GPSなんてまだなかったから)東京に爆弾の雨を降らせるためにやってくるB29の大群だった。今でも昔気質の老人たちがジマンするゼロ式戦闘機、三菱重工製A6M3はB29に比較すると鷲と小雀ほどの差があり、しかもガソリンが無かったので滅多に飛ばせなかった。 じいじは皇居前でB29の垂直尾翼に体当たりして撃墜したゼロ戦の実機と撃墜されたB29の尾翼が展示されているのを見にいったことがある。小さなゼロ戦パイロットの闘志に打たれる以上に、これだけ差があっては勝てっこない、という印象のほうが強かった。日本軍も「連山」という4発の重爆を試作開発していたが、なんと試験飛行で着陸する際胴体だか主翼だかが折れてしまった、というんだ。5代目坂本源蔵さんはもともと理屈っぽいひとだったけれど、そういう話をするときとてもうれしそうだった。今はMADE IN JAPANていうと台湾製やベトナム製に比べるとリッパ、リッパ、逆に合衆国製品のほうが劣悪みたいに言われているけれど、そういうのってさびしいことだとじいじは思う。GMがつぶれて、今はトヨタ自動車が実質世界一の車メーカーだそうだけれど半世紀前の日本のトラックはとても貧弱なものだった。じいじの麻布の家の前の坂、雁木坂を一息では登れなかったんだからね。戦争前にも戦争中にも戦時型とよばれるトヨタ自動車製トラックはあった。 T・Sエリオットの長編詩がじいじに強い印象を与えたのはそういう時代背景の中三笠書房から出版されていた世界文学全集の一冊からだった。 T・Sエリオット氏はアメリカ人としてはずいぶん風変わりなひとで、その当時日本列島にやってきたアメリカ人とは相当違う。 何しろジブンは王党派で支持する宗教は英国国教、文学者としては古典主義だと主張するから、V型8気筒エンジンのアメ車やエスターウイリアムス、エヴァ・ガードナーに代表されるハリウッドやデトロイトのアメリカとは無関係な世界のひとだった。 対日情報工作員として日本語の知識を活用されのち日本文学の研究に踏み込んだ、いわゆる知日派のアメリカ文学者にとってもT・Sエリオット氏の文学世界は、なかなか一筋縄ではくくれない。 日本のメディアも一般庶民もノーベル賞受賞といえばそこで思考機能が停止する。高額の賞金と世界的権威に認められたという信仰が一種のカルトとして機能する。大衆エンタメ雑誌の編集者でさえノーベル文学賞受賞者に支払う以上の原稿料を払っています、とフリーランス・ライターのギャラを値切る。その雑誌社のメデイアに書く原稿は、ノーベル文学賞とは無縁のもので、その出版社とノーベル文学賞もまったく無関係であるにもかかわらず。 21世紀の今の日本は半世紀前の日本とは相当違っているからT・Sエリオットの名前を英文科の学生は知っていても「荒地」という詩のインパクトについてはまったく遠い世界の出来事でしかないだろう。 T・Sエリオットの長編詩は第二次大戦後の焼け跡で発表された作品ではない。四半世紀以前、つまり第一次世界大戦直後の1922年の著作で、それが第二次世界大戦後の日本にB29の機体の輝きと同様の衝撃を日本の文学人に与えた。 戦争中も敗戦直後も、旧世代の文芸評論家は「日本は言の葉の咲きにおう国」と自慢して、ヨーロッパはともかくアメリカの詩文など馬鹿にしていた。 ボブディランの存在などまだ影もかたちもなかったし、日本の国文学者は外国語が苦手というより出来ないひとがほとんどだっただろう。翻訳小説や西洋近代詩の翻訳者はいたけれど、伝統的に深く日常生活の中に浸透していた漢詩・漢文にくらべるとシェークスピアやプルタルコスが政治・経済のエリートに引用されることは稀だった。 DEANくん、もし君がニホンジンの意識構造の変化を大学の卒論テーマに選びたければ、日本のパワーエリートがやたら引用したがった古典的な成句の典拠を調べるってことはなかなか面白いレポートになるだろうと思う。 50年代ごろの総理大臣のスピーチ原稿を調べてもいいだろうけれど、いまの総理大臣は漢字苦手世代だから、何を頼りに演説内容のキマリドコロをシメているんだろうか? 旧式の知識人であるじいじは、演説とおしゃべりは違うものだと思う。 吉本興業の芸人のようなおしゃべりやブログのように舌を滑らせているだけではヒトの上に立つ(様)にはなれないだろう。マーク・アントニーのジュリアス・シーザー追悼演説とくらべられなくてもいいけれど、せめて諸葛孔明のスピーチや李白・杜甫の詩文ぐらい引用できないものか。 国破れて山河あり。城春にして草木深し と杜甫の詩にあるけれど 「四月はいちばん残酷な月 ***************」 とT・Sエリオットの長詩「荒地」までつきつけられてニホンジンは昔の日本に戻れなくなった。 じいじは21世紀の地球少年たちに旧世代の文芸評論家みたいな感性の持ち主になって欲しいと期待しているわけじゃない。けれど、せめて「荒地」の冒頭の一節ぐらいは、教養として暗記しておいてくれないだろうか。