坂本正治氏を偲ぶ

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坂本正治氏を偲ぶ
可哀想なDavidの話
事故
Adobe社「INDESIGN」
片翼撃たれたトンビの死
九十九里浜のテトラポット
〈ヨウカイチバ〉へようこそ!
風間農園のカボチャ爆弾
チバラギの「荒地」から
顔のない仏像と日本のマスメデイア

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2011年9月某日、坂本正治氏が逝った。 そのほぼ1週間前に私のところを訪ねて、中央線の高尾駅までやってきてくれた。2000年に最初の脳内出血、2008年に再び倒れ、それ以降、指先、足の裏などの触覚系の麻痺と、左右視神経の障害で、片眼での車の運転、反対の眼での執筆(タイピング)など、相当な苦痛を背負っていたはずだった。正治氏が暮らしていたのは、「チバラギ」県(彼はそう呼んでいた)の#匝#そう##瑳#さ#市。いろいろな土地計画から取り残された、広い空と、畑水田に囲まれた地目「山林」であった。そこには小さな林を抱いたまま残された5メートルほどの小山があり、隣の小さな放棄地に「隠れ世に出発するまでの宇宙ステーション」と彼が言っていたカマボコ型の、パイプフレームでできたハウスがあった。それが正治氏が最期に選んだ土地と隠れ家だった。それは彼が進めようとした里山劇場の基礎でもあった。 東京の麻布で育ち、銀座に事務所、作業場を持っていた彼にしてみれば、全くの別世界であり、おそらく「飛び上がるほど」新鮮に感じた世界だったろうと思う。もちろん良くも悪くも「田舎」であるが、それもまた彼を悲しくも嬉しくもさせただろうし、見上げる空の広さは、決して人工的な構築物に遮られず、成田を飛び立つジャンボジェットが鳥のようにも見えて「宇宙に近い」と感じたことは間違いなさそうだった。ただ、損傷した彼の視神経のため、いつもそれらは2機編隊の様に見えていたようであるが。 彼の好奇心と知識は、並の人では想像できないほどの行動力に支えられていた。学校で学んだ(教えられた)ことや、インターネットに書かれていることも含めて、彼自身で確かめ、納得するまでは信じなかった。彼はその千葉県の土地をかなり調べ上げたようで、役所の人も知らない昔のことから、寺社仏閣の成り立ちなども調べ上げたようである。 初めは電気も通っておらず、ソーラーパネルを電源にし、エンジン発電機も揃えてあった。さすがに水は必要で、その土地に井戸を掘ってあった。後からは電柱が立ち、それに沿ってインターネット環境も揃ったようである。カマボコハウスはほぼすべて自作で、しっかりとした床も張ってあり、内は外から想像するより広々としている。ただし生きていた時には足の踏み場もないほど散らかってもいたようである。 どこからかやってきて住み着いてしまった野良犬が2匹、それにメダカのいる大きな#瓶#かめ#。制作途中のまま庭に残された大きなパイプのオブジェ。囲いはないが野良道の入口には、LPガスのボンベを改造した緑色の郵便ポストが、優しそうな顔で立っている。 ポンコツワゴンRから農作業をするために四駆の軽トラックに乗り換えて、まだ数ヶ月。こうした土地は年中草刈りをしていないと、自然という魔物に呑み込まれてしまうことをイヤと言うほど知っただろうと思う。畑をやろうと小さな農耕機も揃えていた。隣の調整池にやってくるカルガモを守りたいと、仲間もできていたようである。 9月のむせかえるような暑さの日々に、彼は倒れた。彼は自分の死がもうすぐやってくることを知っていた。幾人にもあてた遺書を、清書しており、常に肌身離さず持っていた。 「●行き倒れの私を発見してくださった方へのお願い 私の姓名 坂本正治 生死不明の場合、救急車を呼ばないでください。 現住所  (略) 私は脳内出血の既往症があり、脳血管がもう老朽化しているので、 いつまた内出血が起きてしまうかわかりません。 恐れ入りますが、もし私の意識不明の状態でいる躯体を発見されたら、救急車は呼ばず、下記の葬儀屋さんに御連絡下さい。 (略) 私は葬儀用自動車に乗って家に帰りたい。」 「Don't call up ANY PARAMEDIC」 日本語がわからない人のために、こう書いてもいた。 アメリカにいる孫に残した幾つもの手紙、FUKUSHIMAのこと、シンチレーションカウンターのこと、ナーガールジュナ、ヴィジュニャーニャ、千葉の昔を調べたメモ書き、コラージュなどの素材にしたかったのであろうたくさんの写真、イラスト、近くの畑に持ち込まれた大量の土壌と汚染のこと、八日市場の街のこと、ロードサイドレストランのこと、宇宙のこと…。 小さなハードディスクに、残された膨大な遺稿。 自分のハウスに一緒に寝泊まりしていた野ねずみDavidのことなど、私には涙なしには読めないものだった。 坂本正治さん。私は何かに#憑#つ#かれたように、数年前から貴方を探していました。そしてやっと探し出して、はじめて書いたメールは5月。そして20年ぶりに再会したのが6月。不自由な身体で、貴方が私を訪ねてくれたのが9月。 今、貴方の残したたくさんの「#ガ#●##ラ#●##ク#●##タ#●#」を片付けています。肉体を去った人の残したものが、こんなに色褪せて見えるのは悲しいものですが、何も持たずに旅立つことの安らぎも知りました。 あなたが本当に求めたヴィジュニャーニャの旅路を歩んでください。  2011年10月                 荻野幸一