ロシア雑感
ロシアは日本から一番近い「白人」の国である。もちろんこの国には白人ばかりが住んでいるわけではなく、極東には中国系、朝鮮系、モンゴル系などの人たちもたくさん住んでいる。バスの通関で世話になったセルゲイ氏も顔は日本人に似ている朝鮮系の青年であった。ウラジオストックの町には白人系ロシア人のほかに中国系の人がたくさん住む一角もあり、中国、朝鮮の食材も手にはいる。
概して極東の白系ロシア人は(西側のことは私は知りません)「荒くれ者」の雰囲気が濃厚で、さらにそれほど陽気な気質ではないうえ、愛想笑顔などしないので意地悪そうに感じてしまうのは仕方がないかもしれない。気候も経済的な境遇も政治的な環境も厳しいこの地で生まれ育った人々に「穏和な」気質を期待することじたいが無理なことなのだろう。しかし、少なくとも外国人と接触することの多い人々や通関に関わる人々は一見愛想はなくても、何らかの接触を持つと誠実で親切な人もたくさんいる。ともかく英語が通じないのは厳しいのだが、だからこそ何とか私の伝えたいことを聞き取ろうと懸命になってくれる人にはほっと気持ちの安らぐことがよくあった。ただし愛想がいい人には注意をしないといけない。フーライバスの保管倉庫で、親切にしてくれた男が、どさくさに紛れて私にバスのキーを渡してくれと言ってきた。このとき「もしかするとこの男に任せると、ことが早く進むかもしれない」などと思ったら大変なことになっただろう。禿げ鷹に肉をあげるようなもので、積載してある荷物ごとごっそりと盗まれていたかもしれないのである。
突然自由経済を任されたロシア人にとっては自由に利潤追求をして良いということと、人のものを盗んでもかまわない、ということの境界線が曖昧なところもあるらしいので、金銭などに関わる事柄では気を引き締めておくべきだろう。
地方(田舎)が切り捨てられて、富や繁栄が都会に集中する様は世界中どこも同じ(日本ももちろん同じ)で、ウラジオストックやハバロフスクなどの都会は驚くほど裕福な人々がたくさんいる。ヨットハーバーに大きなヨットがたくさんつながれている光景も、近代的なスーパーマーケットでたくさんの買い物をしている人々の姿にも私は驚いた。都会では路上で昼間から酔いつぶれているホームレスらしき男もいるし、一歩町を出るとそこには今にも崩れそうな木造の家に住み、庭でひっそりとジャガイモの畑を作っている村人がいる。共産主義の時代に意気に燃えてなのか、それとも半強制的になのか、このシベリヤの地に住み着き、荒れた原野を開拓してきた人々の多くは、今では国家から見捨てられた人々のように見えた。
 
マガジンという雑貨店が村の人々の日用品や食料、ウオッカなどを売っている。マガジンとは雑誌のことではなく、たぶんフランス語などのラテン系のマガザン(店)からきている言葉だと思われる。缶詰や乾物、パック類などの食料が品数は少ないながらも手にはいる。パンも売っていることが多いので、店さえ見つければ食料は手にはいる。もちろん安いウオッカも…。店には並んでいないが野菜やジャガイモなども言えば分けてもらえることもある。それはお店の人の食料かもしれないが…。
この写真の店では電卓など使わず、大きな玉のそろばんで手際よく計算してくれた。アフリカのお店でさえ今では電卓だというのに、頑なな気性だなと思う。
 
道路際に時々現れる「カフェ」と商店街。私たちはロシア語のメニューは読むことができないので困ることもあったが、ともかく食事にはありつける。ボリシューというボルシチ(スープ)とパンしか置いていない店も多かった。冷蔵庫はほとんどないので、冷たいビールだとか飲料を見つけるのは難しかった。ミネラル水はマガジンにおいてあることが多いが、ガス入りとガスなしを見分けるのが難しい。ガス入りでも水に違いないので問題はないのだが。車の補修部品などを売っている店も時々見かける。オイルなども売っているが、品質は良いものはない。
 
バイカル湖の周辺ではマスのような魚の薫製を売る店がたくさんあった。これはとてもおいしかった。特にウオッカには合う。まだ12歳位だろうか、見かけぬ異国人である私たちにあまり言葉も出さず、おずおずと魚を見せてくれた。好奇心と恐怖心と働くことの大切さを知っているかわいい少女だった。
道路際では採り立てのマッシュルームのたぐいを売っていた。このほかにも野いちごや何かに使う葉っぱなど、並べて売っている姿をよく見かけた。真っ正直に生きている素朴な彼らが私はとても好きになった。時々はふっかけた値段を言って来るかもしれないが、それは異国人に対してだけではない。それが商売である。
60年前の戦争で終戦直前(広島にアメリカが原爆を落とした翌日)に中国に侵攻してきたソビエト軍に捕虜として収監され、シベリヤへ抑留された日本の兵隊は数十万人に上った。私は戦後の生まれなのでいろいろという立場にはないが、捕虜と言うよりもほとんど奴隷のように扱われた若い日本の兵隊がいたのである。それも短くて3年、政治的な解決には10年を要した抑留である。
冬には−30度をこえるような土地で、貧しい食事と住居、過酷な労働につかせられ、少数の者をのぞいて多くの人が見知らぬ大地で死んでいったのである。
その日本人への鎮魂としてシベリヤにはいくつものこうした祈念碑が建てられていた。ソビエトロシアとアメリカの政治的結託が透けて見える事実があるのだが、一方的にソビエト(ロシア)が悪いと言うことでことの本質は理解できるものではない。戦争とは、国家権力とはそうしたことを平気ですることができるものだと言うことを忘れてはならないだろう。そんな権力の本質は今でも全く変わっていないのである。

昼食をとるために道路を離れて水際へ降りたフーライバスは、突然足を取られてスタックしてしまった。この草むらの下は掘れば掘るほど水が浸みだしてくる湿地だったのである。
水浴びをしていた男に誘われて私は近くの村にトラックを手配しに行った。この右にある6輪駆動のトラックといくつかの材木を組んで引いてみたが、逆にトラックが引きずり込まれる結果になってしまった。
さらに強力な農耕車を探して、15キロ位離れた村まで左のキャタピラ車を手配しにいった。それは見るからに貧しそうな村で、このキャタピラ車の持ち主も燃料がないので動かせないと言っていた。燃料を持っている他の村人から分けてもらい、やっと彼は手助けを承諾してくれた。彼は人の歩く速さと変わらない速度で、この草原を横切ってやってきてくれた。
ワイヤをバスのシャシに結びつけ、2度3度とシャシが曲がるほどの勢いで引きずり出してくれたのである。脱出に8時間以上かかった。この作業に関わってくれた熱い男たちを私は一生忘れないだろう。
この事件が私のシベリヤの印象のすべてであると言っても過言ではない。

助け出してくれた後、男が言った。今晩は絶対ここでキャンプをしてはいけない!と。ポリスがどうのとも言ったようでもあったが、男の言った意味は「この事件はすぐに村で広まってしまう。それを知った他の者が、何らかの分け前?を狙ってやってくるに違いないから、すぐに立ち去れ…」という意味だったのだ。
明るくともすでに9時を回っていたので、私たちは数10キロ走り、その晩のキャンプ地を別に探した。そこは気持ちのいい草原の中だった。
私は人に助けられて命拾いした経験は幾度もある。サハラ砂漠でも道に迷い、最後の40リットルの燃料で町まで案内してくれた遊牧民の老人がいた。彼もまた私の命の恩人である。旅はいつも人の優しさに支えられているのは間違いのないことである。

 

ロシア Top へ戻る
モンゴル カザフスタン キルギス 中国 パキスタン イラン トルコ ヨーロッパ
Return to the top of Russia
Return to the entrance